《患者の権利オンブズマン東京、ニュースレター10号(2004年11月)より》
堤 寛 Yutaka Tsutsumi, M.D.
藤田保健衛生大学医学部第一病理学
教授、病理専門医
e-mai:tsutsumi@fujita-hu.ac.jp
インフォームドコンセントの難しさに関する一病理医の独断と偏見を述べてみたい。医師と患者の間の圧倒的な医学知識の落差をいかに埋めて、患者さんの自由な選択によって医療リスクが高まらないような方向性が求められよう。よくわからない、わかろうはずのない患者さんの選択をあまりに絶対視する危険性も考慮されねばなるまい。性善説に基づく信頼度の高い医師患者関係がまずありき、であってほしい。
数年前、高血圧と脳梗塞後遺症による言語障害を患う80歳を過ぎた義父が大動脈弓部に巨大な動脈瘤を指摘された。内科医は手術をつよく勧めた。内科的管理には限界があるとの判断だった。義母とともに相当長い時間をかけた説明をくり返し聞いたらしい。
相談を受けた私は手術を押しとどめた。なぜなら、手術に伴うリスクがあまりに大きく、術後に孫(私の娘)と買い物にいける可能性は明らかに50%以下であろううえ、血栓でつまった大動脈瘤がいつどの程度の確率で破裂するかの客観的データに乏しいためだった。
どこで手術するかにもよるが、手術の死亡率は15%を超えるだろうし、術後に脳梗塞の再発・悪化、心筋梗塞の併発、寝たきり状態に続く褥創(床ずれ)の形成、痴呆の進行がみられる確率は決して低くない。老夫婦の言。「何やらたいへんな手術みたいだねえ。」結局、2年後に動脈瘤が破裂して亡くなったのだが、それまでの間のQOLは比較的よく保たれていたので、私は正しい選択だったと信じている。
インフォームドコンセント(説明と同意)は"言うはやすく、行なうはかたし"が実態である。医療者側からみると、説明文を準備したうえで患者さんに医療の内容を説明して同意書にサインをもらえば一件落着で、何かあればその書類がものをいう、といったところが実感だろう。一方、患者さんにとって、インフォームドコンセントに基づくインフォームドチョイスは明白な"患者の権利"である。とはいえ、多くの難解な医学用語を交えた説明を突然受けた患者さんは、よろしいですねもへったくれもない、よくわからないけど同意書にサインをしないと先に進まないと感じるのではないだろうか。
多くの場合、この現実はどうしようもない。医学知識はとても広範かつ複雑で、ちょっとやそっと勉強したくらいで簡単にわかるようなしろものではない。圧倒的な医学知識の落差を埋めて、医師の言うことを100%理解することはまず絶対に不可能だろう。
日々、医学生に医学を教えている立場からすると、授業で1時間をかけてていねいに説明したうえで試験しても、学生たちは"ろくにできない"ことが多い。試験前には教科書やノートをみながら復習をしているだろうに!
それほど、医学的内容は複雑怪奇・難解至極といっても過言ではない。医学用語一つひとつを理解しないと疾患の診断や治療を理解するのはなかなかおぼつかない。医師は、舌はゼツ、左側はサソク、両側はリョウソクと発音する。壊死(えし)、梗塞(こうそく)、浸潤、穿孔、断端、腫瘍・腫瘤・肉腫、異型性に異形成、上皮に間質、腹膜・空腸・肺動脈などなどの用語が使われたとき、すっと理解できる患者さんがいるほうが不思議である。
乳がんの患者さんとしばしばお話しする機会がある。彼女たちは驚くほどよく勉強する。診断、治療に関する知識は医学生をしのぐことさえある。ただそれは、乳がんの手術を受け、術後治療を受けている間にキャッチアップした知識である。初めての告知の際に十分な予備知識を持っている人はほとんどいないだろう。彼女たちの言。「初めて説明されたときは全然わからなかった。そもそも気が動転していて、ろくに説明を聞くゆとりもなかった。あのときに今の知識があれば、治療の選択肢が違っていたかもしれないのに!」
医学生が6年間の学習を終えて医師国家試験を受験する際には、すべての領域に関する相当に細かい医学知識の習得が要求される。ところが、卒後に専門分化すると、当然ながら知識や技能は特定領域に集約し、日常診療で必要としない知識・技能は消滅あるいは形骸化する。わが国の医師法上、医師免許さえあれば何科を標榜してもよい自由標榜制が採用されており、病理医の私が外科の診療を行っても合法である。
全く現実性のない話だ。同様に、多くの外科医に病理診断はできない。病理診断を任せられるようになるまでには数年間の専門医トレーニングが必須だからだ。
たとえば、乳がんの手術前には必ず、生検や細胞診による病理診断がくだされる。外科医は標本採取を行い、病理診断の結果の記述(病理診断報告書)の大筋を解釈するが、自身で顕微鏡を覗いて顕微鏡所見を理解できるわけではない。だから、細かいニュアンスを理解できているわけではない。顕微鏡所見の理解は医学の中でもきわめて専門性の高い部門に属す。必要に応じて、病理医が直接患者さんに説明する必要性があるだろう。
手術後の説明についても事情は全く同様である。手術材料は必ず病理診断がなされ、癌の場合、癌の組織型、病変の広がり、浸潤度、切除断端の癌細胞の有無、リンパ節転移の有無・程度などが判断される。こうした病理所見が担当医を通じて患者さんに説明されるが、その担当医は顕微鏡所見の細部は十分に理解してはいないだろう。
しかし、多くの場合問題はない。なぜなら、もし疑問があれば病理医と担当医の間で術前・術後に連絡をとりあって、不明な点は解決しているはずからである。当然ながら、病理医が常勤する病院では病理医と臨床医の間のコミュニケーションが成立しやすいが―。
一方、病理診断のことばの使い方も必ずしも統一されていない。同じ病変をみて、違う診断病名が用いられることは決してまれでない。病理医の好みや教育背景の違いにとどまらず、腫瘍の組織分類の問題にもつながる。この辺のニュアンスは医学生や病理医以外の医師にはわかりにくい。まして、患者さんにとっては難解きわまりない。
このことが誤解・すれ違いの原因となりうる。たとえば、胃生検で低分化腺癌と印環細胞癌はほぼ同義だが、違うことばとして表現される。大腸ポリープで腺腫の異型性が部分的に増した病変に対しては、異型のつよい腺腫、高度異形成、境界病変、腺腫内癌などのことばが使われるだろう。これらは事実上ほぼ同義で、病変がとりきれていれば、それ以上の治療が不要であることを意味する。しかし、定義上、腺腫は良性腫瘍、癌は悪性である。難解というより、理不尽ですよね。
個人的な見解をあえていわせていただければ、インフォームドコンセントに基づく、患者さん自身によるインフォームドチョイスは、医療のリスクが高まる方向に作用する可能性が少なくない。なぜなら、なぜその治療がいいのか、患者さんが完全に理解することは難しいからである。パターナリズムの医療を容認するつもりはないが、専門の医師が患者さんに最良と判断した選択としろうとの患者さんの選択を並列的に比べるには無理があろう。
患者さんがリスクの高い選択をした場合、医療者はそれをそのままにすべきだろうか?選択した患者さんの責任だから仕方ないではすまされないという医療側の思いは小さくない。この辺を理解しあえる良好な医師・患者関係が構築されることを祈る。まず医療不信ありきの性悪説ではなく、性善説に支えられた信頼関係(トラスト)が前提であってほしいのだが―。
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