動物の王国からの便り


「風に立つライオン」と「死の日常性」
〜JICAケニア感染症対策プロジェクトに参加して〜


藤田保健衛生大学医学部第一病理学  
堤  寛


 1993年12月〜1994年3月の3ヶ月間、JICA(国際協力事業団)の 短期専門家派遣としてナイロビの街に3ヶ月間滞在したときの印象記です。ビルハルツ住血吸虫対策と細胞診の技術指導が目的で、ついでに、ナイロビ大学附属のケニアッタ国立病院で病理診断を担当、研修医の指導もした。

 12月13日に到着して、17日には早くもサルモネラ下痢症。とりあえず、クロマイの世話になった。その後、1月25日から発熱、マラリアと思いきや、結局A型肝炎。2月2日に診断がつく。GPT 2,800。ナイロビ病院に3週間入院。ひどい黄疸(ビリルビン18)とそれに伴う掻痒感、そして体重減少に悩む。入院した日本人の通訳も経験した。結局、妻と娘に迎えにきてもらい、3月4日に予定より早めにナイロビを発った。次女との記念写真が懐かしい(体重50キロ、黄疸と無精ひげあり)。

 (文章は、「医学のあゆみ」171 (9): 757-761, 1994に掲載された。)
 

 色とりどりのブーゲンビリアの花が美しく咲き誇るナイロビの町は、意外に涼しかった。 1800メートルの高地にあることが、赤道よりわずかだけ南に位置するこの熱帯の首都に、世界一過ごしやすい気候を一年を通して与えているのだ。アフリカが暑いという考えは実はあまり正しくない。地図をよく見直してみるとわかるが、海岸線沿いを除く大陸の大部分が茶色、つまり、高原地帯なのだ。ナイロビは高地のため、マラリアの危険はない。

 ケニアで美しいと感じたことの1つは、海岸の町、そしてイギリス領ケニアの最初の首都であったモンバサから車で一時間ちょっと内陸に入ったサバンナ地帯の村で出会った地元小学生の歯の白さと屈託のない笑顔。猛烈に揺れるジープの前につづく緑に囲まれた真っ赤な道も、とても印象的だった。この山間の村には、電気も水道もない。小学校は、土でできた壁と椰子の葉の屋根はあるが、ドアも窓ガラスも床も、そして椅子も机もない。教室の中は石ころが敷いてあり、唯一学校らしい黒板には、算数の勉強のあと。

ここは、JICA感染症対策プロジェクトの一つ、ビルハルツ住血吸虫対策の対策地域にほど近い。94年1月中旬、私たちは、フィールドにおける細胞診検査の実地研修のため、この村にいた。ナイロビからモンバサまで、一日一本の夜行列車の旅。13時間をかけてゆっくりと進む25両編成の長い列車に、一等車は二両。フルコースの食事つきで、なかなか快適な旅だった。ケニア医学中央研究所(KEMRI)の病理技師に細胞診のイロハを伝授するのがこのときの私の役目であった。隣村では、水道ないし山水による安全水の確保、貝を住みにくくするための小川の改修、治療薬投与といった住血吸虫対策が行われているが、この村はまったくの未対策だ。

  8年制の小学校の生徒の中から、2年生と7年生を30人ずつ選び、尿を集めた。検尿コップ、その他すべての器具は日本から持参したものだ。検尿コップを渡すと、制服を着た生徒たちは校庭の隅々に散って行った。この小学校にはトイレがない。集まった2年生の尿のうち、1つは肉眼的血尿、1つは溜り水(尿が出なかったのか、意味が伝わらなかったのか)。クワレという近くの町の地区病院(ここには電気がある)まで検体を運んで遠沈してみると、とにかく沈渣の量に驚かされた。実に、3分の2以上の小学生が住血吸虫に感染していた。その率、量ともに、泥水に浸かって遊ぶ機会の多い低学年により高い(住血吸虫症は経皮感染である)。


  でも、彼らは見た目いたって健康だ。この地方では、子供が血尿を出すのはあたりまえで、大きくなれば自然に治る。血尿が止まると「おまえも大人になった」といってお祝いをする慣習すらあるそうだ。彼らにとって、病気とは、生命に危険の及ぶマラリア(ここはハマダラ蚊の濃厚汚染地帯)、肺炎や下痢症(この3つの疾病がこの国の三大死因である)を意味しており、日常生活に多大な影響を与えない住血吸虫症などは、病気のうちに入らないのだ。教室に彼らを集めて写真を撮ったときの大歓声は耳にへばりついて離れない。間違いなく、フラッシュつきのカメラで写真撮影されたのは初めてだったのだろう。彼らの輝く目、白い歯、そして人懐っこい仕草。健康とは何か、医療とは何か、幸せとは何か。先進国の価値観を押し付けることの傲慢さ、無意味さを実感するのは、現地に足を踏みいれた人だけだろうか。現地の人々は、いったい、不幸せなのだろうか。

  この地方を歩いてみた。熱帯の太陽が焼けつくように熱い。サバンナの畑に植えたとうもろこしが立ち枯れしている。水田に植えた稲は収穫の時期を迎えているらしいが、まるでイネ科の雑草のようだ。穂のついている株は数えるくらい。そのうちで、実のついているのは半分以下。この地方の人たちは現金収入が少なく、100 円程度の抗マラリア薬クロロキンが買えない。マラリアによる溶血性貧血で地区病院を訪れる小児患者のヘモグロビン値をみると、5 g/dl はあたりまえで、3 g/dl もまれでない。そして、決して安全とは言えない輸血。B型肝炎、HIVのキャリア率がともに 10% 近いのだ。
 

 1月は乾季。小川の流れが止まり、水たまりができている。水たまりには、マラリアやフィラリアを媒介する蚊のぼうふらや住血吸虫症を媒介する巻き貝がたくさん住んでいる。この泥水が、この地方の人たちの生活水のすべてと聞き、言い知れぬカルチャーショックを受ける。人々はこの水を飲み、この水で炊事・洗濯し、水浴びする。子供たちの遊び場でもある。向こう側で、子供たちがおいしそうにマンゴやカシューナッツの実を食べながら手を振っている。

 水たまりの横に、径 50 cm もある大きな穴があいていた。ゾウの足跡だそうだ。ここは、シンバ国立公園に接しており、野生のゾウが多い。ゾウは、食べ物が乏しくなると、木を薙ぎ倒すらしい。太い幹がユニークなバオバブの木だけが、悠々と生えているのが印象的だ。ゆるい起伏を示す土地に散在する掘っ立て小屋のような彼らの家も、人間もろとも、ときにはゾウに踏み潰されてしまうそうだ。
 

安全水確保のための事業、小川の整備(草取り、流れの直線化、底をスコップで掘り下げて流速を早める)や井戸掘りのために、あの炎天下で一日働いてたったの 80 ないし 100 ケニアシリング (Ksh)(1 Ksh≒1.6 円)。それでも彼らにとっては貴重な現金収入なのだ。この土地の人たちに必要なのは、いったい何なのであろうか。医療以前の、社会のインフラストラクチャーがまったく整っていないこの村で、私たちは彼らに何をしてあげるべきなのであろうか。

 JICA感染症プロジェクトの専門家として、そして人体病理医として、ケニアでの3ヶ月の滞在を許された私は、ナイロビ大学医学部人体病理学講座で病理研修医と接し、モンバサにある Coast Provincial General Hospital の病理検査室とクワレの Subdistrict Hospital の検査室を見学する機会を得た。一昔前はアフリカの優等生と言われたケニアにおける医療の現実の一部を、ケニア最先端のレベルから末端のレベルまで、実体験することができたのは幸運だった。共通した特徴とも言える点は、私の印象ではつぎの4つである。@「お金がない」A「ファイリングの考え方がない」B「階級意識が強い」C「死があまりにも日常的である」。

 @ナイロビ大学は、医学部を含めた全学部がストライキ中だった。教職員組合の結成を求めて、教職員がストライキ。学生の講義は滞りがち。インターンの月額給与が 6000 Ksh、研修医は 8000 Ksh、教授で 15000 Ksh というから、とてもまともな暮らしには足りない。医学生はもっと悲惨。国からの奨学金がほとんどの学生の生活資金らしいが、これが半年分でたったの 5000 Ksh。病院のカフェテリアに学生の姿はなかった。それもそのはず。一食 40 Ksh 支払っていたらそれだけで赤字。コーラの 11 Ksh でさえ、彼らにはなかなか手が出ないらしい。まして、海賊版で安く手に入るとはいえ、一冊 400 Ksh する教科書を全科分そろえるのはとても無理。コピーなどとんでもない。そもそもコピーの機械が滅多にない。図書館にある教科書は、みなイギリスのお古なのか、発行年月日をみると何と 50 年、60 年代ばかり。数少ない雑誌類も最新号で 1992 年なのには驚かされた。病理の教室にある参考書も古いものばかり。これでは、調べたくても、とてもまともな情報が得られるとは思えない。お金のなさは、筆記用具、ノート類、ホルマリン、ゴム手袋といった日常必需品の不足、トイレや電話にも鍵をかける習慣、そして、何度も経験した夕方5時に建物の中に閉めこまれてしまう現実(main door の鍵を持っている秘書が5時少し前に帰宅してしまうと、鍵を持っていない人は建物から出られなくなってしまう:盗難がいかに多いかを物語っている)に如実に顕れている。病理解剖室での断水は日常茶飯事、また、骨きりのためのストライカーと呼ばれる電動器具はなく、開頭は糸鋸で行われている。血液検査室では、白血病診断のための酵素組織化学反応や Ph1 染色体検査はとてもできないという。日本の援助で導入された自動血算機は順調に動いていたが、最終的なプリントアウトはされていなかった。用紙が買えないのだそうだ。学生の講義のために、2枚のコピー資料(1枚 2-3 Ksh)を 100 部ずつ配布しようとしたら、こちらでは考えられないことだと妙に感心されてしまった。

 一方、クワレの Subdistrict Hospital の検査室での体験。この田舎の病院には M.D. はゼロ、clinical officer (C.O.) という資格の即製医療者(いわば裸足の医者)が 10 人ほどいる。検査室の外には、主としてマラリアの患者が列をなす。ここで行われている検査項目は、簡単なヘモグロビン測定(ザーリ法)とマラリア塗沫検査(ギムザ染色)、そして、便と尿の寄生虫卵検査(無染色)がすべて。遠沈機と顕微鏡用に電気はあるが、一見立派な大型冷蔵庫は完全運休中で、荷物置場と化していた。技師諸君に聞いたところ、少し前までは CRP 用のキットくらいはあったが、今はとても買えない。輸血用のクロスマッチもここではできないので、患者をケニア第2の都市モンバサまで運ぶのが原則とか。ここで見せてもらった、尿沈渣中で動きまわる Trichomonas vaginalis 原虫の姿がとても印象的だった。

    

 Aクワレの検査室では、結果を患者の持参するノートの切れ端(多くの場合、小学生用のノートの一部)に結果を記載する。これば、患者が来院するたびに持参するもので、検査データに限らずすべての診察情報が記述されている。つまり、この病院にはカルテというものがないのである。病院では、患者が来ない限り患者の情報は存在しないといってよいのだ。この地方に戸籍がないのと似ている。大統領選挙は、いったいどのようにして行われたのだろうか。つい余分な心配をしてしまう。

一方、ナイロビ大学での驚きは、人体病理学の財産ともいえるHE標本のファイルが存在しないこと。診断用に、パラフィンブロックからHE標本が1枚作られるのだが、これは、診断を担当した医師、とくに研修医個人のものとなる。過去の標本をレビューしたいときは、もう一度パラフィンブロックから再薄切してもらうしかない。しかし、これがまた一苦労。なにせ、ブロックは長径 50 cm もある深い箱の中に十羽一からげで放置されているのだから、技師から「1週間は待ってください」と言われるのがおちである。
 
診断レポートは一応バインダーにまとまってはいるが、病理診断専用の用紙がなくてサイズがばらばら。臨床診断が不明など序の口で、患者の年齢、性別、標本採取部位など、診断に基本的に必須の情報さえ滞りがち。こんな事情なので、診断はHE染色だけが勝負。日本ではめったに下さない「線維肉腫」の診断名を、短期間に実に4回も使わざるをえなかったことには十分な言い訳がたつ。コピー機もコンピュータもなく、標本整理棚が買えないばかりか、ファイルするという基本的な作業さえ怠っているのが、ケニアの東大、ナイロビ大学の現状(惨状)であった。もっとも、金銭的に比較的ゆとりのある私立病院の検査室では、きちんとしたコンピュータファイリングが行われているのだがー。

  Bケニアは、予想以上の階級社会であった。M.D. では、専門医に相当する Consultant の称号が status symbol となっているようだった。M.D. と C.O. の差は実力以上に厳然たるものだし、看護婦でもさまざまな階層が存在している。技術員では、technologist と technician は歴然と区別されている。清掃夫は、technician の下にランクされるようである。このような階級制度は、基本的にはイギリス式のコピーらしい。エリートコースを歩めるか否かは、secondary school ないし high school での成績と家庭の経済力で決まってしまうそうだ。この点は日本でもまず同じかもしれないが、彼らの階層意識には想像以上の強烈さがある。欧米人以上に、"This is not my business." といった"差別"意識が感じられる。たとえば、technologist は部屋や流しの掃除などしないし、病理研修医は染色技術を顧みようとしない。しかも、部族意識が強い。政治のみでなく、大学、病院といった社会にまで部族対立が見え隠れする。そのためか、検査室や実験室で、仲間と一日中おしゃべりをして過ごす technologist は決してまれではない。彼らは、自分の地位に甘えているようにさえみえる。私には、この階層性が悪い意味で横行し、仕事の能率を下げている気がしてならないのだがーー。かつて、欧米に奴隷を出し、列強に植民支配されたのと同じことを、自国民に対して繰り返すようにさえみえるケニアのエリートたち。クワレで出会った technician の言。「もっと勉強したい。チャンスがほしい。」意欲のある若者は多い。しかし、金銭的にも、社会構造的にも、彼らは決して恵まれているとは言いがたい。たとえ、大学を卒業しても職がないことが多いのだ。失業率の高さは、昼間に町中や郊外をドライブするとすぐにわかる。木陰にたむろしている男たちの数の多いこと。これは、政治のせいだけなのであろうか。

Cケニア国民の三大死因は、肺炎、下痢症、そしてマラリア。最近は、交通事故死も多いらしい。モンバサの Coast Provincial General Hospital では、年間 1000 体の解剖が行われている。半数以上は、事故、事件がらみの法医解剖らしいが、病理解剖診断名には、大葉性肺炎、腸チフス、マラリア、結核などが並ぶ。専任の介助者にとって、屍体をさばく、積み重ねるといった作業は日常茶飯事。
 ふだんから、多数の病理解剖を行っているこの私でさえ唖然としたのは、遺体保存用冷蔵庫の大きさとその管理方法。解剖をしなかった遺体を含めて、きわめて多数の遺体が冷蔵室に折り重なり、絡み合って眠っていた。冷蔵庫は 30 体用らしいが、実際には 300 体もの遺体がところ狭しと詰め込まれていた。この事情は、大学病院でもまったく同様だった。なぜ?その答えは、「遺族が遺体を引き取り、土葬するのに要する費用を捻出するのに、時には3ヶ月の日時を必要とするため」だと聞いた。大学では、解剖室の外に大人用と子供用の棺桶 coffin が放置されていた。遺族が、遺体冷蔵庫の中から求める肉親の遺体を捜す現場にも遭遇した。私には、彼らがあまりにも平静な顔つきで遺体の確認をしているように見えてならなかった。たまたま、柳田邦男著「"死の医学"への序章」を携えてケニアを訪れ、著者のいわんとするところに強く共鳴していた私には、わが国では今や、あまりにも薄れてしまった「死の日常性」が、かの国では当然のごとく受け入れられていることに強い衝撃を受けた。道端に放置された遺体を目撃したというKEMRIの同僚がいたし、知り合いや親戚が若くして病死ないし事故死したという現地の方の話も何度か聞いた。私の短いケニア滞在中に、ナイロビ大学の医師と医学生がひとりずつ、エイズで亡くなったと聞いた。「死」と接する生活環境は、「死」を隔離しようとする病院医療が普通であるわが国とは、決定的に異なっているとも言えよう。

 思いつくままに、ケニアでの体験を書き連ねてみた。感染症の勉強を目的に、そして、さだまさしの「風に立つライオン」の歌詞に魅せられて、はるばるアフリカ大陸までわたった私に、何者にも代えがたい貴重な体験を与えてくれた魅力ある国、ケニア。医療の原点を感じるのに、そして、医療援助の何たるかを考えるのに最適なチャンスを提供してくれたひとびとの暮らし。また行ってみたくなる不思議な吸引力をもつ国土。悠々と暮らすサファリの動物たち、ボゴリア湖のフラミンゴと沸きだす温泉、そして、キリマンジャロの夕暮れは、胸に迫る迫力そのものであった。A型肝炎ウイルスをわが肝臓に与えてくれたのもまた、ケニアの食事だった。ナイロビと日本での2ヶ月に及ぶ闘病生活も、病理医として、十分に国際貢献できることが実感できた以上に、今となっては、自分にとって、またとないよい薬とこやしになったといえる。

 ナイロビ大学医学部は、今のところ医師を輩出しているケニア唯一の施設である。2500 万人の人口に対して、年間 100 人の医師数では絶対的に医師不足である。聞くところによると、ケニア全土に人体病理医10人、耳鼻科医8人、放射線治療医5人、CT装置5台、内視鏡3本などと、なぜか多くが countable なのである。わが国の援助でできた素晴らしいICU装置を維持、活用するためにも、金銭的援助に留まらない人的援助、それを支える国際感覚をもった医師の養成が今日本に求められている。


  

  

    


 
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