「がんばって」:使っていいとき、いけないとき


神戸の大震災で家も家族も、何もかも失ってしまった人にとって、一番つらい言葉はボランティアを含む周囲の人からかけられる「がんばって」だったという。精一杯がんばりつくしている人が、これ以上どうやってがんばればいいのか?

 同じことは、癌やその他の進行性疾患末期の患者さんについてもいえる。医療者(あなた)が気楽に使う「がんばって」の一言で、患者さんがいかに傷つくか。そのことに気づく医師になってほしい。「がんばって」は気楽な挨拶語でない場合があるのですよ!

 「がんばる」に相当する英語はない。そう。がんばるのは日本人独特の感性なのかもしれない。「ファイト!」といって集団で走っている運動部学生たちのかけ声に驚く欧米人は少なくないそうだ。どうして、女子学生までもが「喧嘩しろ!」と叫んでいるのか、彼らはそう簡単に理解できないかもしれない―。

 話はちょっと脱線するが、JRの経営する駅前ホテルに「ターミナル」ホテルチェーンがある。このホテルに止まる欧米人は例外的だ。"末期患者"のためのホテル(つまり、ホスピス)にしか聞こえないから―。群馬大の医学生が、駅前に立つ立派な国際ホテルの英語表示を"Gumma"から"Gunma"に替えてもらうのに相当苦労したと聞く。だれも「ゴム腫」ホテルには泊まりたくなかろう。

 話を本筋に戻そう。sympathy(同情)とempathy(感情移入)の違いもぜひわかってほしい。医療者には患者さんに対する同情は禁物だ。患者さんを自分の配偶者、恋人や子供のように感じてしまうとき、冷静かつ客観的な判断はできなくなる。適切な治療も望めないだろう。外科医が肉親の手術をすることはまずない。医療者にとって必要なのは、相手の立場に立って考えること、相手の目線にあわせてみつめることだ。これが、心理学でいうempathyだ。

 最近、ノンフィクション作家、柳田邦男氏が強烈に主張される「2.5人称の視点」もほぼ同じニュアンスといえる。大切な人「あなた」と乾いた第三者である「彼・彼女」の中間的な視座で、患者さんに接してほしい。被害者、病者、社会的弱者の立場に寄り添い、その身になって考える職業倫理を身につけてほしい、と柳田氏は私たちに訴えかける(『この国の失敗の本質』、講談社文庫)。

 さてさて、皆さんは何のために勉強しているのでしょう。「患者さんのため」に働ける医師をめざしてくださいね。そのあまりにも"当然のこと"をつい忘れてしまう、それが日常になりがちなことを自省しつつ、とりあえずここでは、ちょっぴり偉そうに書き記すのを許してもらいましょう。

 
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