連載: 病理医の目


(1999年2〜3月に朝日新聞夕刊科学欄に24回連載した際の元原稿です。未掲載分を含む。 当時は、東海大学医学部病理学に所属。その後、藤田保健衛生大学医学部第一病理学に所属(〜2017年3月))

堤 寛 Yutaka Tsutsumi
e-mail: pathos223@kind.ocn.ne.jp

「料理医」

 以前、ある会社に電話で小さなモーターを注文した。「こちら、〇〇病理学教室ですが―。」一週間後に届いた荷物の宛名には「〇〇料理学教室」。
 病理医という医者を知ってますか。患者さんの目の前に登場しないので、わが国では欧米と違って、料理医と聞き違われるほどなじみが薄い。ある調査では、病理医の存在を知る人は半数以下、病理医の仕事内容に関しては8割以上の人が知らない。
 病院で胃カメラを飲むと内視鏡医は病変部胃粘膜を摘み取る。外科医は胃がんや肺がんを手術する。乳房のしこりに針を刺して細胞の塊を吸い取るのも外科医。婦人科医は子宮の出口から綿棒で細胞を擦り取る。こうした細胞や組織を顕微鏡でみて最終診断を下すのが病理医の仕事。診断結果は臨床医から聞くので、患者さんにとって病理医は黒子的存在。医療の最終目的=治療における「病理診断」の重要性に口を挟む医師はいない。
 確かに病理医は多くの素材を取り扱うコックによく似ている。今、皮膚を診たと思ったら、次は脳腫瘍。大腸のポリープの次は肝臓。ありとあらゆる病気(料理法)を知っているプロの診断士(調理人)、それが料理医、いや病理医。手術中に病変が取りきれたかどうかを顕微鏡的で判定する「迅速診断」や治療方針への助言も重要な業務だ。おっと、今度は病理解剖だ。

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「最後の診断」

 米国の人気作家アーサー・ヘイリーの「最後の診断」(新潮文庫、永井淳訳)は、病理医の仕事と役割をみごとに描いた小説である。舞台は1959年、米国東海岸の一地方病院。新進気鋭病理医のコールマン医師と頑固で偏屈なベテラン病理医のピアスン医師が働く。メインテーマは、看護婦の膝に生じた病変の最終病理診断。コールマンの診断は骨折、ピアスンの診断は骨肉腫。天地がひっくり返るほど違う二つの病気だが、実は顕微鏡的診断は難しい。最後には、当時死亡率がほぼ100%だった骨肉腫の診断に落ち着く―。プロにしかわからないこの悩みを取り上げたところに、作家のプロ意識を強く感じる。
 また、作家は着任早々のコールマン医師に「どうしてこの病院にはクロスファイルがないんだ!」と言わせている。クロスファイル、つまり、患者の名前や病名から過去の標本が検索できるシステムのこと。わが国では、40年後の現在でも、いまだにコンピュータファイリングシステムのない地方病院は少なくない。まして、病理医が二人常駐しているなんて!日本では病理医は一人っきりで孤軍奮闘が日常的。休めないし、診断に関する相談もままならない。最近、この「一人病理医」問題を国際シンポジウムに取り上げようした。そして認識した。「一人病理医」に相当する英語は存在しない。ああ、そんなばかな。

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「矛盾の集約庫」

 わが国では病理医不足が深刻。全医師のわずか0.7%に過ぎない。300床以上の総合病院で、常勤の病理医を雇用しているのは半数あまりにとどまっている。
 なぜ、病理医のなり手が少ないのか。文部省配下の医学部では病理学は基礎医学に分類され、厚生省配下の病院では病理診断は検査の一部とみなされている。これから進路を決めようとする医学生に少々魅力を訴えにくい状況だ。臨床医としての病理診断医には卒後臨床研修が必須であるべきだが、病理研修医を受け入れている大学はまだ少ない。多くの大学では、基礎医学系病理学教室の大学院制(研究者育成システム)を利用して病理診断医が養成されている。臨床研修医として病理診断を研修すると、厚生省からの補助金がその分だけカットされるといった笑えない状況が終わったのはつい昨年のことだ。正しい病理診断には多くの経験と臨床的知識が要求されるにもかかわらず、病理診断そのものが医行為であると正式に認知されたのは平成元年。病理は医療の矛盾の集約庫。
 一昨年の医療法改正に伴う標榜科(院外への広告を許される診療科名)見直しに際して、病理科標榜は「患者を診ない」一点で切り捨てられた。今後は、病院機能としての病理診断を表示することを通じて、医者の医者たる病理医が正当に認知されるといいのだが。

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「殿様と客観性」

 医学生を病理医へ勧誘するときのうたい文句。うそをつかなくていい。悪いものは悪い、わからないものはわからないとはっきり言わねばならない。患者を直接受け持たないので自分のペースで仕事ができる。そして、ネクタイをしなくていい。
 これからの医療には「オーディット(監査)」が求められる。客観的な評価をする・受けるシステムのことで、そこでは「セカンドオピニオン(第三者意見)」が重要だ。従来の白い巨塔的医療では、医学部の講座制や学閥意識の中で、外部意見の入る余地が少ない、医者同士の相互批判の成り立ちにくい縄張りができあがってしまっている。講座の教授や病院の医局長は一国の主、「殿」であり、たとえ不適切な診療があっても黙っているのが家臣の役目。名古屋の医療弁護士、加藤良夫氏は、この「封建性」が専門性、密室性と並ぶ医療の3つの壁のうちもっとも乗り超えにくいと主張されている。
 さて、病理医はメディカル・オーディタ足り得るか。講座も学閥もありの中で、しかも患者の顔を知らない病理医が、患者のための冷静な診断を下し、臨床医と対等に客観的な意見を述べられるだろうか。病理医のもつ「客観性」を院内・院外のセカンドオピニオンとして生かすことがまず第一歩。幸い、持ち運び容易な病理標本は客観性を保ってくれる。

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「医療の質」

 大病院を直接受診できる現行の医療提供システムは、よりよい医療を受けたいという患者の願いをかなえているだろうか。現行の診療報酬システムは、医療の質にかかわらず一定の報酬を与える大いなる矛盾を抱えている。十分な時間をかけた診察をして、必要最小限の検査や投薬ですませるベテランばかりだと病院経営はおぼつかない。検査づけ、薬づけに加えて、トラブルに続く追加治療も金を呼ぶ。こうした出来高払い制の矛盾を修正すべく、一定の疾病には一定の額しか保険対象としない米国型包括診療報酬システム(マネジドケア)が今、一部の公立病院で試行中。米国のシステムでは病理診断は別枠扱いなのだが、日本型では病理診断も包括されてしまうかもしれない。これでは、肝心な最終診断が経済的理由でカットされかねず、逆に医療の質の危機が助長される可能性がある。
 医療の質の評価には、構造、過程、結果の3つの側面が重要だが、そのいずれもが患者側には判断しにくい。第三者機関としての日本病院評価機構が機能し始めてはいるが、あくまで総論的評価にとどまり、各論的評価、まして医師個人の質の評価にはほど遠い。
 患者にとって手軽な判断方法を教えよう。病理医と麻酔医が常勤で何人いるかを院内の掲示板で確認すること。ともに専門性が高く人材不足を嘆きつつ診療を支える医者仲間。

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「誤診」

 ちょっとした誤解、情報不足が痛恨の誤診へつながりうる。具体例を少し紹介したい。
 新婚6ヶ月、妊娠3ヶ月の20代女性が乳房のしこりを訴えて受診した。外科医が外来で生検(局所麻酔下でしこりの一部を切り取ること)し、病理診断室で迅速診断(組織を迅速に凍結させて薄い標本を作製して顕微鏡診断する)が行われた。臨床診断は乳腺腫瘍、担当病理医によって数分後に下された病理診断は浸潤性乳がん。その場で入院予約され、間髪をおかず手際よく手術予定が組まれた(妊娠合併乳がんはたちが悪いため)。たまたま連休をはさんで通常より時間のかかった永久標本(凍結標本よりずっと美しい形態保持が得られる組織切片)にめぐり合ったのは数日後の夜中だった。一見して病変はがんではなかった。皮膚の汗腺由来の良性腫瘍!祈るようにして主治医に電話すると、何と翌日が手術予定日。当然、手術は即刻中止となったが、人工流産を施されたおなかの子供は帰らなかった。主治医の言。乳腺腫瘍にしては浅い位置の病変だった。ああ、その一言が先にあれば、がんの診断はなかったかも。納得して退院した若夫婦に半年後、新たな生命が宿ったと聞いたときの安堵感。顔も知らない患者さんなのですが。
 病理医と臨床医のコミュニケーションは何より大切な医療の質の支えなのです。病理医にとって電話は宝物。

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「術中迅速診断」

 病理医がその場にいないとできない医療行為の代表が術中迅速診断だ。手術中に提出された組織片や細胞を数分以内に診断し、手術方針の決定に関与することが主な役目。外来手術の結果をすぐに患者に報告して、時間をおかずに手術予定を立てる目的にも利用される。高い医療の質を保証する手段だ。
 肺の病変ががんか結核か。卵巣腫瘍が良性か悪性(がん)か。脳腫瘍ではグリオーマかリンパ腫か(前者なら手術続行、後者なら手術は終了で薬物治療)。がんが取りきれているか(切除断端にがん細胞がないか)。リンパ節転移があるか否か(あれば切除範囲を広げるか、切除不能と判断され手術そのものが中止となる)。腹水や胸水にがん細胞がばら撒かれているか否かが迅速診断される場合もある。いずれも、診断の担い手である病理医がその場にいないと診断行為が成立しない。常勤病理医がいない病院では、非常勤病理医がカバーしている場合も少なくない。
 最近、画像転送技術を駆使した遠隔地診断が可能となりつつある。病理医のいない病院で作られた標本の顕微鏡画像が病理医のいる中央の病院に送られ、診断結果は電話で伝えられる。送られなかった画像の中にがん細胞があったときの責任体制をどうするかは解決されねばならない問題だ。



「検査センター」

 病理医のいない小病院や医院で採取された病理検体はどのように診断されているんだろうとご心配の向きに解説を。地元医師会立病院の病理医が診断する例もあるが、通常は地域大学病院の病理学教室に検体が直接持ち込まれるか、検査センターが集配して大学や大病院の病理医たちが時間外に診断している。全国的にみると、検査センター経由で診断されるのは全病理検体の半数近くにのぼる。
 問題点をあげてみる。まず、価格のダンピング(安売)。請負額が正規の診療報酬(通常1件あたり9000円)の半額なら病院は半額の儲け。細胞診検体にいたっては無料サービスをうたう業者もある。なぜ?病理検査はもともと儲からないのでサービスに徹し、ドル箱の血液検査や生化学検査の検体をいただく戦略。むろん、精度管理のしっかりした大手業者もある。最大の敵は情報不足。標本を診る病理医には必要な臨床情報が不足し、病理診断を受けた臨床医も見も知らぬ遠く離れた病理医には質問しづらい。これまで重要性を強調してきた病理医と臨床医のコミュニケーションが成立しがたい状況のできあがり。
 対人口比あたりの病理医数がそれほど変わらない英国では、病理検査を取り扱う検査センターはない。胃カメラ検査件数の圧倒的な違いはあるが、病理診断を安易に飯のネタにしない・できないシステムの構築が必要だ。

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「検体取り違え」

 中年男性が都内の病院の胃カメラ検査(生検)で胃がんと病理診断され当院を受診。当院での病理検査は繰り返し陰性だった。さて、困ったのは手術予定を組んだ外科医。がん細胞がいったんは確認されているのだからやはり手術と患者さんへ説明。待ったをかけたのは病理医だった。最初の病院から問題の病理標本を取り寄せた。明らかな胃がんが顕微鏡下に現れた。それはどうみても高度に浸潤する胃がんの姿で、胃カメラでみつからないとは思えない。そこで、病理医は検体取り違えの可能性を疑った。
 病理標本ができるまでには手作業による多くのステップがある。胃カメラ室で患者名を記したホルマリン瓶に生検標本を入れ、申し込み伝票とともに病理検査室へ送る。病理室では、標本に受付番号をつけ、パラフィン(ろう)に組織を埋め込み、うすい標本に薄切後スライドガラスに貼り付けて染色する。病理医は受付番号と患者名を確認しつつ診断を下す。どこかのステップで標本が入れ違うと―。
 結局、この検体はすでに進行胃がんで手術された女性のものと判明した。どうやって?組織切片上で行った血液型鑑定が決め手。この中年男性はO型なのに、標本はB型だったのだ。かの進行がん患者の血液型もB型だった。1週間ほど待ってはもらったが、男性患者さんの胃袋は今でも無事である。

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「病気もどき」

 がん保険の支払いには、原則として病理診断書のコピー添付が求められる。がんの診断にとって病理診断はもっとも着実な最終診断なのだ。ある外資系大手がん保険会社の規定では、大腸のポリープ内がんは保険適応にならない。なぜなら、わが国でがんと診断される病変が米国では異形成と称され、がんと区別されているためである。「がん」とは、浸潤・転移して患者を死に至らしめる可能性のある病変であるべきだが、ポリープ内がんはそうではない(がんの術語を使うと外科医は不必要な過剰診療をしかねない)、が論拠である。
 いっぽう、わが国では内視鏡診断の発達を背景に、胃がんを中心とした早期診断が普及しており、大腸においても欧米では発見困難な早期病変が数多く発見されてきている。まだ浸潤の始まらないうちに発見するのが究極の目的とみなされている。昨年、週刊文春で取り上げられた日本の早期胃がんは「病気もどき」という衝撃的記事の問題点は、同じ病変に対して使われる病名が日本と欧米で異なる点に集約される。わが国病理医の主張は、欧米病理医の基準では、粘膜生検標本において粘膜下層へ浸潤するがんを識別できない!
 さて、どちらの見解が患者にとってメリットが高いか。内視鏡的粘膜切除術といった安全で低侵襲な治療法が確立した現在では、日本に分ありとみなしたいのは欲目かしらん。

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「病理解剖の意義」

 病理医の重要な業務に病理解剖がある。病死した患者さんのもつ病気の診断、進展度合、治療効果を判断し、死因を追及することによってつぎの診療に生かす。医学生や研修医への教育の場としての意義が大きい。思いもよらない重大病変がみつかることもある。患者さんが優れた教師に変身する瞬間だ。先日の脳死臓器移植に際して、ドナーの病理解剖が行われなかったのは残念だ。なぜなら、脳死に相当する病理所見を科学的に証明する機会を逸してしまったから。
50歳台の男性が末期胃がんのため亡くなった。背骨への転移で下半身麻痺となり、看護婦や家族がおむつの世話を続けていた。病理解剖では、がん細胞の全身転移のほか、動物性単細胞生物による伝染病のアメーバ赤痢が見いだされた。聞けば、血の混じった下痢がひどかったそうだ。幸いにも関係者に感染者はなかったが。
 病院の病理解剖率ないし数は、厚生省や日本内科学会が指定する研修・教育指定病院の基準の一つ。病理解剖の医療における重要性を示しているが、数よりは内容を重視すべきだとする声は臨床側のみならず病理医側からもあがっている。本当に患者や遺族のために還元できる解剖業務になっているか、見直すべき時期かも知れない。
 メメント・モリ(死を忘れるな)は、人の死と日常的に接する医療者にとって忘れがちな格言である。年に一度の解剖慰霊祭ではこの言葉をかみしめてみたい。

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「業務感染」

 業務(職務)感染という言葉を知ってますか。医療従事者が医療業務を遂行する中で蒙る感染を指し、広い意味の院内感染に含まれる。悪名高い業務感染には「針刺し事故」によるB型・C型肝炎ウイルス感染があげられる。ここでは、病理医と病理技師の職業病を紹介したい。それは肺結核症。主として病理解剖室が感染の舞台となる。
 どれくらい危険かって?JR職員の結核症発症率を20とすると、病理関係者のそれは現在約600、単純計算でも30倍の危険度。40年前に英国で病理医の結核が問題となったときの数字は500。病理歴10年の女性病理医は5人に一人が結核にかかる計算上の恐ろしさ。
 理由をあげよう。まず、病理解剖室の感染防止対策の乏しさ。病理医自身の感染の危険に対する危機意識の乏しさ。BCG陽転による抗結核菌免疫力への過信。高頻度にみられる高齢者日本人の結核性病変。感染性の高い活動性結核の臨床的正診率の低さ(病理解剖症例からみると、たった約3〜4割の正診率に過ぎない!)。そして、結核菌の感染力の強さと空気感染性。結核菌は乾燥に強く、空気中を漂う少数の菌の吸入で感染を生じうる(老人ホームでの結核集団感染があとをたたない)。
 病院経営からみれば不採算の病理解剖(保険適応外)。1枚たった200円の結核菌対策用特殊マスクの着用が身を守る。



「臓器処理」

 手術で切除されたり、病理解剖で取り出された臓器はホルマリン固定され、その一部が顕微鏡検査される。残りはホルマリン漬けのまま数ヶ月〜数年間保存されるが、病理検査室の保存スペースには限りがあるため、やがて処分される。
 廃棄物処理法上、臓器は感染性一般廃棄物に分類される。大病院では、検索済み臓器はまとめて乾燥後、棺おけにつめて斎場で焼却される。さらに、燃え残りの骨を引き取り、無縁仏としてお寺に収めている施設もある。いっぽう、専門業者が臓器をそっくり引き取り、焼却炉で処分している場合も多い。ダイオキシン規制の対象となるため、簡単には処分しにくいし、まして人さまの臓器である。必ずしも違法とはいえない臓器の生ごみ扱いに何らかの規制が必要と考えるのは筆者だけだろうか。
 もう一つ隠された臓器処理問題がある。お産の後産=胎盤である。直後に粉砕処分する産院もあるが、多くのお産を扱う産科病棟では、1個約500 gの胎盤を凍結保存する。この場合、ホルマリン処理による感染性の無毒化過程はなく、文字通り感染性医療廃棄物となる(肝炎ウイルスの健康キャリア率は1〜2%)。胎盤専門の廃棄業者に有料で引き取られることになるが、生だけに利用価値が高く(?)、処理の実態は不明である。ヒト胎盤エキス入りエステなるものが出回っているからくりは?

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排出者責任」

 鳴き砂で知られ、夏は海水浴客でにぎわう京都府の琴引浜に、使用済みの注射針が落ちていると報じられたのは2年ほど前。針の海洋投棄だ。
産業廃棄物処理場などへの点滴セットや注射針の「不法投棄」があとをたたないのはなぜだろうか。感染性廃棄物運搬・処理業者は知事の許認可制だが、簡単な講習で認可がおりるためすべての認可業者が十分な経験と知識をもっているとは限らない。処理下請けによるゴミのたらい回し、感染性廃棄物は全産業廃棄物の 0.1% 以下と少量なため建築廃材と混ぜてごまかす、行政監査の不徹底なども問題だ。
 ごみは一般廃棄物(一廃)と産廃に分類される。日本の法律では、一廃は市町村の責任で処理するが、産廃には排出者責任を課している。世界的にみてこれは例外的である。ごみ処理問題の最先進国、ドイツの法律では、「ごみは資源」、「ごみ問題は地域・国家レベルで取り組むべき環境問題」が基本的考え方。個人や個別の企業の良心に任せず、環境を共有する地域の共同責任でごみ問題に対処する。当然、分別による再利用・再資源化をめざす。分別を怠ると高い料金を請求される。焼却が原則の日本のごみ処理との落差は大きい。
 排出者責任を問われる日本の病院では、理不尽にも医療廃棄物処理用の収入源がない。厳しい経営の中、安かろう、悪かろうの処理に流れる。

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ドイツに学ぶ」

 ドイツでは医療廃棄物をA〜Eに分類する。Aは一般ごみ、B・Cは感染性廃棄物、Dは有機溶剤、Eは臓器。Bは院内では感染性が問題になるが、環境中での危険度は低く、消毒せずに排出する。Cは環境へ出す前に消毒を要する病原体だ。エイズウイルス、B型・C型肝炎ウイルスはB群に分類され、これら汚染ごみは消毒する必要がないし、してはならない。消毒剤で環境を汚染するのは罪悪とみなす。Eの臓器は倫理的観点から焼却される。これは統合されるEUの基準となる可能性が高い。
 日本の多くの病院では、もっとも強力な消毒剤であるグルタラールが多用されている。救命救急センターや肝炎病棟で使われたメスやはさみなどの器具は水洗ののちにこの液体の中に漬けられる。確かに消毒効果は高いが、処理する看護婦はたいへんだ。グルタラールは発癌性が取りざたされているホルマリンの親戚の揮発性物質だ。強烈な刺激臭によって鼻や目から液体が流れ出る。身体的負荷のみならず、コストも決してばかにならない。院内感染対策の進んだ英国の感染管理看護婦にこの点を尋ねると、一言「信じられない。」消毒剤を使わない高圧蒸気滅菌が常識だ。日本の病院の多くでは、滅菌装置を備えた中央材料室の不備が問題だ。大量に下水に流される消毒剤が地球環境に優しかろうはずがない。

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「蒸留」

 蒸留とは液体の沸点の違いを利用して、2種以上の液体混合物から純粋な液体成分を分離精製することをさす。水とアルコールの分離は中学の理科で実習する。
 義務教育で学習するこの原理を利用して、病理検査に使用されるアセトン、アルコール、キシレンといった有機溶剤の再生・再利用を始めたのは数年前のことだった。まず、実験室用の簡易蒸留装置を購入した。現在では、専用の大型蒸留装置でアルコールとキシレンを再生している。操作はワンタッチで、熟練を要さず、日常業務の合間の作業で十分だ。こうした地球環境に優しい病理検査はすでに欧米では常識になっているが、わが国の病理検査室ではまだまだ。有機溶剤の購入費と廃液の焼却処理費が節約され、環境だけでなく病院経済にも優しいのだ。なのになぜわが国ではなかなか普及しないのだろう。
 病院では、使い捨て万能主義が横行している。注射針、注射筒、ゴム手袋、マスク、ピペットから使い捨て手術着にいたるまで、使い捨てが正義。リユースは危険だし、かえって金もかかる。結果は、必要のないものまで使い捨て。ゼロエミッション(ごみを出さない)が合言葉の製造業の社会で、環境問題には目もくれない独善的医療者のできあがり。
 病院内への企業経済論理や「グリーン調達」の考え方を導入することはなかなか難しい。



「手洗い」

 O-157汚染防止が至上命令であるマクドナルドチェーンでは、徹底した手洗いが企業戦略となっている。最近の標語:手洗いを習うなら、お母さんか、病院か、マクドナルド。さてさて、病院で正しい手洗いを習えるだろうか?
 150年以上前のウィーン大学産科病棟。産後に産褥熱で次々と死亡する母親たちを救うべく立上がった医師ゼンメルワイス。パスツールやコッホが細菌を発見するのに遡ること30年、病気の原因はミアスマという得体の知れない空気だと信じられていた。その暗黒時代に彼は徹底した手洗いと塩素消毒の有効性を実証し、産科病棟における死亡率をゼロに下げることに成功した。しかし、当時の産科学権威は彼の業績をことごとく無視した。なぜか?内診する自分たちの手指が病気を媒介している事実を容認しなかったのだ。ただ、彼の方法の有効性を確認した心ある産科医は何人も自殺している。
 今、わが国の病院ではメチシリン耐性黄色ブドウ球菌MRSAが猛威をふるっている。MRSAの感染様式は医療者の手指を介した接触感染である。MRSAは健常皮膚についても悪さをしない常在菌だが、病変部に感染すると患者を死に陥れかねない。MRSA感染の蔓延を防ぐ最良の手段は徹底した手洗いに尽きる。150年前の権威たちの誤りを繰り返さないために、有効な院内安全教育が今求められている。

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「トイレ」

 欧米の病院を訪れると、わが国の病院との違いに気づかされる。病院の匂いがしないこと、窓が広く病室が明るいこと。すべての病室に手洗いのための流しがあり、液体石けん、ペーパタオルと消毒剤が配備されている。手袋はS,M,Lの3サイズがそろっている。ごみ箱はキャスターつき。カーテンレールや蛍光灯は埋め込み式が普通だ。廊下に出てみよう。消火器や備品入れはすべて壁掛け式。壁と廊下の接点はR型で埃の溜まりにくい構造になっている。
 トイレの大便器は例外なく壁掛け式だ。排水管は壁側に埋め込まれ、体重を支えるためもあって壁が分厚い。つまり、トイレの床を清潔に保ちやすい構造、清掃のしやすいつくりなのだ。わが国の病院や福祉施設でこうした構造を備えたトイレをみつけることは至難の技に近い。もっとも、大手ホテルやコンサートホールの一部ではすでに壁掛け式大便器が採用されている。掃除しやすさが最大のメリット。東洋陶器は病室用・業務用の壁掛け式ユニットを販売。イナックスは昨年、待望の壁掛け式大便器を単品として新発売した。工事費用を含め、床置き式に比べて割高。いずれにせよ、いかにもマイナーな存在だ。
 わが国では、病院設計者も医療者も欧米では常識的なこうした事実に従来ほとんど気づかなかったのだ。トイレメーカーだけの責任ではない。

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「ナースウォッチ」

 国内線の飛行機に乗った際、座席のポケットにはさまれた機内ショッピングのカタログをめくってみた。ファッショナブルグッズとしてナースウォッチが紹介されているではないか。地上に降り立つと、銀座の百貨店の時計売り場を2ヶ所訪れた。ナースウォッチを置いていたのは1ヶ所。小さい時計店ではその言葉すら知らない場合が多い。
 ナースウォッチは看護婦さんが胸に着けて、腕時計代わりにする時計のことで、表示は天地が逆になる。残念ながら、わが国での普及度はまだまだ低い。なぜか?最大の理由は、国内の時計メーカーがこのタイプの時計を生産していない点にある。現在入手可能なナースウォッチはフランス製かイタリア製。輸入物だけに値段が安くないし(8000〜9800円)、デザインの多様性に乏しい。どうして、セイコー、シチズンやカシオは安いナースウォッチを造らないのだろうか。理由は、前回述べた大便器の場合と同じで、医療者側の要求が十分でないためだろう。しかし、これだけ潜在ニーズのあるマーケットを放っておくのはメーカー側の研究不足だともいえるが。新人看護婦は毎年4万人、医師は8千人。
 どうしてナースウォッチが必要かって。腕時計をしたまま診療している医療者は、「私はきちんとした手洗いをしていません」と宣言しているのに近いからだ。正しい手洗いは手首までが大原則。

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「白衣」

 病院でマスコミの取材を受けると、よく白衣を着けてくれと頼まれる。病院での記者会見ではほぼ例外なく医者は白衣を着ている。テレビドラマでも、前ボタンをかけず、首に聴診器を飾って歩く医師の姿が格好よく描かれる。言い訳がましいが、こうしたマスコミの医師としての見栄えに対する期待が、ユニフォームとしての白衣のイメージを医療者に刷り込まれせることを助長している。白衣は本来予防衣であり、汚れていることを前提に着なければならないはずである。
 確かに、肝炎ウイルスが付着しているかもしれない白衣を着て病院前の銀行に登場する医師に対して、周囲の目はかなり寛大である。レストランで白衣を着けたまま食事する医者の隣に居合わせた患者家族の目にも非難がましさは少ない。医局のソファーで白衣のまま一服などは日常茶飯事の光景。昼間の会議には8割の臨床医は白衣のまま登場する。この白衣は取り替えたばかりだからきれいだと本人は主張するかもしれないが、まわりの目にはそれが洗濯したてかどうかは定かではない。
 白衣の正しい着方は実に難しい。英国の医師は逆に、不思議なほど白衣を着ない。背広にネクタイが身だしなみの基本。医者かどうかはネームプレートやバッジでご判断下さいという姿勢だ。さてさて、皆さんのご意見やいかに。

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看護婦の資格」

 30代も半ばを過ぎた多くの看護婦や技師諸君が黙々と放送大学や夜学に通い、4年制大学卒の資格を取ろうとしている。どうしてだろう。
 看護婦の国家試験は、専門学校や短期大学なら3年、大学なら4年で受験資格ができる。むろん、厚生省の行う国家試験は学歴にかかわらず同一で、差別はない。今でこそ多くの4年制看護学部(学科)があるが、一昔前までは看護婦の多くは厚生省管轄の専門学校出身だった。4年制大学の少なさを除いては、臨床検査技師に関しても状況は同じ。専門学校3年間の学習が短大と同等とみなされ、あと2年の勉学で4大卒の資格が取得できるのは、ようやくきたる4月から。従来、彼らは放送大学に5年間通い続けねばならなかった。
 理由は、厚生省が対等と認める人材に対する文部省の差別だ。つまり、専門学校出の看護婦や臨床検査技師の文部省的な学歴は高卒なのである。このことが、教職につく道を阻み、学位取得を難しくさせている。確かに、高卒でも大学の教授になることは不可能ではないが、壁はとても高い。まして、4年制大学に修士(大学院)過程の教員には4大卒資格と学位所持が必須条件に近い。
 高校生の段階で十数年後の悩みがわかろうものか。同じ国家資格なら1年でも早く取りたいと思うのは当然だ。この矛盾は決して若い彼らのせいではない。

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二重支配」

 国民保健の責任省庁の変遷:生直後は厚生省、学校では文部省、働く間は労働省、老後は再び厚生省。みごとな縦割り行政。もっとも象徴的なのは医学部の二重支配。医学部6年間は文部省支配。その成果を国家試験するは厚生省。卒後教育は厚生省の責任だが、その成果を専門医・認定医試験として問う各種学会は文部省管轄下。こんな奇妙な制度はむろん日本以外みない。
 医学部教員の業務は、教育と研究が文部省、診療が厚生省と分断される。診療行為そのものが教育であり、診療の中にこそ国民の健康に必要な研究テーマがある。所詮、3者の分離は無理な話である。文部省は研究重点主義。厚生省的な診療能力は評価対象外。つまり、大学で偉くなるには、研究成果がすべて。教育はやって当然、評価しにくい、が理由で評価対象になりにくい。卒前・卒後教育の統合は医学教育の重要テーマ。文部省の進める大学院大学構想の中で、旧帝国大学の若手医師は軒並み大学院生に。いっぽう、厚生省は卒後研修2年間の必修化を目指すが、文部省に支配される大学病院の協力を得にくい。医療をよくしようと思ったら、まず医師養成所である医学部の改革が必須。そもそも大学を国が管理しようとする発想自体が古い。せめて、医学教育はすべて厚生省に任せたたらどうか。義務教育は市町村に任せればいい。そう、文部省無用論。

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大学院大学」

 秋も深まるころ、大学などの研究機関では文部省科学研究費獲得のための研究計画書作りが頂点を迎える。しかし、これがうまく当たっても配分金額はせいぜい年間数百万円。人件費には足りないし使えない。この研究費の対象は、小学校教員から医学部・農学部といった大学の教員まで幅広い。いっぽう、科学技術庁からの研究費は選りすぐられた研究者一人に数億円単位。
 基礎研究の遅れを取り戻す戦略と文部省がうそぶくのが旧帝大を中心とする大学院大学構想だ。東大キャンパスを歩けば大学院学生にあたるらしい。医学部も例外でない。名古屋大学でも1学年百人以上の大学院生をとらねばならない。米国のように6年制医学部を廃して、4年制大学卒業者(学士)に限った4年制大学院大学なら話がわかるが、文部省が今姑息的に進めているのは国立大学医学部における学士入学枠の少数確保。
 厚生省が家庭医の育成を目指した卒後研修2年間の必修化構想をいくら声高に叫んでみても、所詮、医学部と医学部付属病院は文部省のもの。文部省が許可する卒前教育改革も卒後教育との統合がなされない限りむなしい。文部省の目指す卒後教育の重点は、いい医者ではなく世界に通用する医学研究者の育成。あふれる大学院生のパワーで、少ない科学研究費の限界を乗り越えられるだろうか。

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「市場原理」

 国民皆保険制度をもたない米国では、医療費抑制の切り札として医療への「市場原理の導入」が行われた。保険会社に社員として雇われた医師によって医療が行われる。保険会社の意に添わない医療は許されない。医療界にはリストラの嵐が吹き荒れ、大学病院を含めた大病院の身売りが相次いだ。今、米国市民に突きつけられている課題は、突き詰めれば「医療は誰のものか。患者か、株主か。」
 白内障の眼科的手術は外来で行い、乳がんの手術でも3日で退院。抜糸は外来で。日本の病院と違って入院期間が極端に短い。ある疾患には一定額しか保険が支払われない定額保険制度(マネジドケア)のためだ。病院前にはホテルが林立し、退院後は患者はホテルの部屋から外来へ通う。身体的にも経済的にも痛手が大きい。
 大学病院では医学教育が行われる。患者の入院期間があまりに短いため病棟での卒前・卒後教育が成り立たず、勢い、教育の場は外来へ。しかし、大学病院の外来部門は十分な数量がない。したがって、外来での医学教育は外部病院に委託せざるをえない。医学教育の外注化だ。医療界の激変はこうして医学教育の姿も変えつつある。これが米国医学部の抱える最大の悩み。さてさて、日本の医療と医学教育の行方やいかに。

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「EUの挑戦」

 今年になって、EUの通貨統合が実施され、2002年にはマルクやフランが市場から消滅する。歴史的な大事件である。EUで行われている試みは通貨統合にとどまらない。医療の切り口でみると、医師や看護婦の資格を共通のものにしようとする壮大なチャレンジが続く。不揃い度の高い卒前教育にはとりあえず手をつけず、まず行うのは英語を共通語とした卒後教育の統合。内科、外科、病理といった各専門分野の学会が中心となって、卒後教育メニューの標準化・目標設定が進み、どの国で研修を受けても同じ資格が得られる。ことばを研修の壁にしてはならないが合言葉。国際性豊かな医師たちが続出することうけあいだ。
 いっぽう、わが国の医療界は相も変らぬ講座制、学閥主義。狭い日本の中の大学間相互交流すらおぼつかない。新米医者の多くは医局というぬるま湯にとっぷりと漬かる。ろくに英語ができなくても医者になれる世界でも稀有なる国、それが日本。ほぼすべての医学用語が日本語化されているおかげだ。漢字をもつわが日本語の言語学的なすばらしさ・幅広さ。たとえば、タイ語には小回りの利いた医学用語はない。フィリピンやインドでは共通語は英語だけ。いい教科書はみな英語。医学は英語で勉強せざるを得ない。日本の医師が世界から取り残されてしまう、が杞憂だといいが―。

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「受身の医者」

 医療者にとって、病院で行われる医療は受動的だ。医者は患者を選べず、自分を訪ねてくれる患者をただ待つのみ。教育、研究もまた、しばしば内向する。自分たちの殻に閉じこもりがちで外部から見通しの悪い、独り善がりの医療者のできあがりである。
 外部批判にさらされない状況に漬かっていると、カルテの開示やセカンドオピニオンを聞くことが不得手になる。今、社会が医療者に求めるのは、外向きの啓蒙活動ではないだろうか。診療、教育、研究に加えた医療者の4つめの職務だ。慶応大放射線科の近藤誠氏の問題提起を批判するのはたやすいが、彼が模範演技する患者、市民に向けたわかりやすい情報開示の姿勢に学ぶべき点は少なくない。
 医者仲間は相互批判が苦手。互いに不利なことには口をつぐむ、その姿勢こそ社会に批判されてしかるべき。情報開示や意思決定(ディシジョン・メーキング)が正しい方向に向かうようにするための第一歩として、医療内容の監視を行う委員会組織(ティッシュー・コミティー)を院内で機能させ、客観的な第三者評価が行われることが望ましい。そこでは、広い守備範囲をもつ病理医の役割が重要視されよう。さてさて、日本の病院にこうした開かれた新機能が根づき、患者のための医療により一層近づくのはいつのことだろう。

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「医療援助」

 数年前、国際協力事業団(JICA)派遣の短期専門家としてアフリカ大陸の国ケニアに滞在した。この国の病気の多くは感染症。下痢症、肺炎、マラリアにエイズ。エイズ患者の死因の多くは結核症。こうした感染症多発地区の診療所の検査室で行われていたのは、尿・便の寄生虫卵と血液のマラリア原虫の顕微鏡検査だけ。マラリアの診断はつくが、患者は100円足らずの治療薬クロロキンが買えない。この地方には、電気もガスも水道もない。小学校には、窓ガラスも床も机もなく、黒板には算数の計算のあと。そして、はだしの子供たちの美しく輝くひとみ。医療援助のむなしさを感じた瞬間だった。下痢症やマラリアで死んでゆく子供たちを救おうと思ったら、医者など不要。ただただ、きれいな水があればいい。野生の象と共有する小川の水の代わりに、安全な井戸水か水道水がほしい。社会のインフラストラクチャーが整っていない地域では日本的な医療の価値観など無用の長物。
 外務省が高く評価する対ケニア援助にサバンナ地帯の灌漑事業がある。定期的な米の収穫が期待され、食糧問題の解決に大いなる成果をあげているという。しかし、医療の視点からみると、この灌漑事業はフィラリア、マラリア、住血吸虫症といった水を介する病気の蔓延を招いた。それまでなかった病気があっという間に広がる。そして、医療援助の出番となる。何かおかしい。援助とはいったい何なのだろう。

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「医学部受験生へ」

 受験シーズンだ。医学部をめざす受験生も多かろう。先輩として一言、君たちに注文・忠告したい。
 まず1つめ。医学部は決して受験戦争の頂点や人生の勝利者的存在ではない。医学部は医師という職業の訓練学校。最近の早期臨床教育はその傾向を助長している。ぜひ、就職を決めるつもりで受験してほしい。他の多くの学部と異なって、医学部を出れば大部分の人材は医師になる。数年後には確実に医師過剰時代を迎える。もしかすると、今では考えられないような就職難が待っているかもしれない。フランスがすでにそうであるように。
 2つめは、医者という職業が「水商売」的側面を多分にもつ点だ。患者さんのために働くのが使命である医者は、患者さんのニーズに合わせた働きを要求される。しかも、連日夜も眠れないなど珍しくない。しかも、現代の医療にあっては、一人では何もできないに等しい。つまり、医師に要求される要件は、1に人間性、2に体力、3にチームワーク、専門的な技術や知識は第4位、5位といったところだろう。ぜひ、医学部では、運動部で1〜3をみがくことをお勧めする。
 医者の仕事は確かにやりがいがある。しかし、医師個人の社会に対する影響力という面からみると、前に述べた受身の医療をする限り、すいぶんとちっぽけな商売でもある。さて、新入生諸君、心して入学してくれたまえ。

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「ピロリ菌」

 ピロリ菌は胃粘膜に感染して胃炎や胃・十二指腸潰瘍の原因と目されている細菌だ。"♪胃がんのもと、それはヘリコバクター・ピロリ♪"と歌うのは、人気ロックバンドの爆風スランプ。
 病理医は毎日、胃カメラで採取される胃粘膜片にピロリ菌がいるかどうかを判断する。同僚の言。「抗生物質でピロリ菌を殺したら、お酒がおいしくなったし、二日酔いしなくなった。」胃の不快感が消えてすっきりすることは確かだ。
 豪州の病理医ワレン博士が胃粘膜に棲むらせん状細菌=ピロリ菌を顕微鏡でみつけ、同僚の内科研修医だったマーシャル医師が孵卵器培養に成功した、と報告したのは1983年。そのころ、病理医である著者も胃粘膜における免疫反応の研究に没頭し、穴のあくほど顕微鏡を覗いていた。私の結論は、何らかの病原性物質の持続的刺激が「腸上皮化生」という胃粘膜変化に連動する。しかし残念なことに、うじゃうじゃと胃粘膜にたかるピロリ菌には気づかなかった。標本の染色条件は今とほとんど同じ。みていたはずなのにみえなかった!今思えば、いささか夢中すぎた。あのとき気づいていれば、といくら悔やんでも後の祭り。ゆっくりと増えるピロリ菌をマーシャル医師がみごと培養した秘訣は、復活祭の5連休をまるまる休んだこと。働き過ぎで心の余裕がないと結局損をする。ああ実感。

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「赤い筋肉」

 アフリカで食べたダチョウの肉は牛肉に似ていた。カモ肉も赤身だ。魚で言うと、トロ、カツオやシャケは赤身だが、アジやサンマなどの近海魚は白身だ。
 赤い筋肉は長距離ランナーの共通の特徴といえる。マグロやカツオなどの回遊魚は泳ぎ続けないと死んでしまう。一方、白い筋肉は短距離選手用。すばしっこいがすぐ休む。赤と白では筋肉の質が違うので、マラソンと百米走がともに得意な陸上選手はいない。
赤い筋肉細胞は、赤血球のヘモグロビンに似た酸素結合性の赤いタンパク質、ミオグロビンを多量に含む。ミオグロビンはヘモグロビンから酸素を奪うので、長距離選手の筋肉は酸素をたっぷり使える。
 "渡辺淳一氏の短編「桜いろの桜子」は、美しい死に顔を疎遠になった恋人に見せようと、ガス自殺した悲しい女性の物語だ。ガスに混じる一酸化炭素がヘモグロビンに強く結合して酸素を押しのけ酸素不足になると、顔色はバラ色になる。ミオグロビンはヘモグロビンから一酸化炭素も奪い取る。
 火事で火の手が及んでいないに一酸化炭素中毒死する女性たちがいる。まだ大丈夫と、着替えや化粧をしていて逃げ遅れる。ミオグロビンの酸素が一酸化炭素に置き替わり、息苦しくなる前に、赤い筋肉が動かなくなるからだ。助けての声が出ず、手も足も動かなくなる。

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「紙おむつ」

 高齢化社会では、小児用のみならず大人用の紙おむつが大量に使用される。ずっしりと重い使用済みの紙おむつは、病院から出る場合は感染性廃棄物として取り扱われるが、家庭から出れば一般ゴミだ。何かおかしい。
 「廃棄物処理法」によると、感染性廃棄物は「医療関係機関等から出されるゴミで感染の危険のあるもの」と定義されている。医療関係機関等に含まれるのは、病院、診療所、保健所、血液センター、衛生検査所、老人保健施設、助産所および医歯薬系研究機関だ。企業や学校の医務室や薬局は対象外。在宅医療の普及によって、一般家庭でも紙おむつをはじめ、腹膜透析器具、インスリン注射針、点滴装置などの医療器具が使われている。しかし、使用済み機器に対する法的規制はなく、その回収システムは未発達だ。
 そもそも、紙おむつは本当に感染性廃棄物として処理されるべきだろうか。女性の生理用品に関しても、入院患者が使用した場合だけが感染性廃棄物でいいのか?こうした感染危険度の低いゴミは一般ゴミと同等でよいというドイツの考え方は合理的だ。
神奈川県の北里大学病院では、肌触りのよい布おむつを加熱消毒できる洗濯機で洗って繰り返し使用しており、紙おむつは使わない。地球環境に優しい実践で見習いたい。

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「模擬患者」

 大講義室の前に、おなかを抑え重苦しい面持ちの女性患者と向き合う医学生がいる。「いつごろからおなかが痛いんですか」「半年ほど前から時々忘れたころに―」
 これは医学生に対する医療面接訓練の一場面。実は、この女性はよく訓練された「模擬患者」で、決まったシナリオの沿って演技している。学生が聞きとった「問診」内容のみならず、学生が名を名乗り挨拶したか、患者名を確認したか、わかりやすい言葉でしゃべったか、相手の目を見て話したか、じっくり患者の話を聞いたか、などの項目に対して彼女が評価者となる。結果は直ちにフィードバックされる。
 この形式は、「市民が医学教育に参加する」意味でも画期的で、教育効果が高い。東京、大阪を中心に模擬患者のグループが活動を繰り広げている。彼らの職業的背景は、主婦、会社員、僧侶、医療関係者、俳優などとさまざまだ。日本でも多くの医学部で、模擬患者を利用した医学教育が徐々に始まっている。
 アメリカの医学教育では、模擬患者の役目が上に紹介した医療面接にとどまらず、実際の患者では行いにくい診療手技、具体的には内診(婦人外陰部の診察)、乳房や男性性器の触診に及んでおり、後者がむしろ主流と聞く。日本では診察手技を教える模擬患者はまだいない。ニーズは高いのだが―。

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「突然死」

 肥満気味のAさんは子宮筋腫の手術後、順調に回復していた。明日退院という日の夜中、ベッドの脇に倒れているところを巡回看護婦に発見された。すでにこと切れていたが、30分ほど前の回診では異常なようすはなかった。翌朝の病理医による病理解剖で、死因は肺塞栓症と判明した。血の塊が肺の血管に急激にかつ大量に詰まって突然死したのだ。
 入院中に生じたり、あるいは病院に運び込まれてきた事故死や突然死の遺体は、多くの場合病理解剖され、傷や病変と死因の因果関係が追求される。医療事故や入院中の突然死の場合は、ふだん共同作業をしている医者仲間の医療行為に対する客観的判断が求められるため、病理医は医療の質の番人に変身する。当然、病理医が労災保険や医療裁判に関わる機会が増える。上の事例は死因が明らかで問題なかったが、死因不明もありうる。
 病院外で発生した事件や事故で亡くなった方や死因不明の突然死・不審死に対しては、通常、法医解剖が行われる。法医解剖と病理解剖の境界線上にある入院中の突然死では、病理医にも法医学的知識と経験が要求される。米国では、法医学は病理診断のトレーニングに続く選択コースとなっている。日本では残念ながら、両者の交流は少ない。法医学専門医が増えるためには、まず病理医の確保から始めるのが筋なのだが―。

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「スリッパ」

 家にはいるとき靴を履き替えるのは欧米にはない習慣だ。確かに、日本の多くのホテル・旅館に準備されている消毒済みスリッパは便利で気持ちがいい。欧米では一流ホテルでさえなかなかないサービスである。
 その延長線で、昔はスリッパに履き替える病院や医院が多かった。スリッパを重ねることによって病院の床の汚れがスリッパ内部に持ち込まれ、足の裏や靴下が不必要に汚染される。スリッパの裏をきれいに保つという大義名分なのか、日本の病院は床の消毒に熱心だった。これは決してほめられない。感染予防対策の観点からは、感染リスクの低い床や壁に消毒剤を使うのはむだなだけでなく、職員の健康や地球環境にも優しくない。
 欧米の多くの病院では、手術室でも靴を履き替えない。床はたとえ手術室でも無菌ではありえないし、きちんと清掃してあれば床から感染が生じる可能性はないからだ。欧米の手術室の感染事故が日本より多い証拠はどこにもない。いや、サンダルやスリッパを共用する日本の手術室は、かえって水虫の感染源になる。
 日本の病院の約半数に欧米では廃れたナースキャップをつける習慣がまだ残っている。帽子を清潔に保つのは容易でないし、つけるのに時間もかかる。ナースキャップへの思い入れを育てる看護学校の戴帽式なる儀式はそろそろ廃止したらどうだろう。日本の医療界の常識が世界に通用しない部分は少なくない。

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「アカウンタビリティー」

 円周率は「みひとよにひとみごろ」、鎌倉幕府開設は「いいくに」。こんな覚え方ができるのは日本語独特。日本語の細かいニュアンスを作り出す繰り返し言葉、さらさら、ざらざら、どろどろといった表現は日本語を学ぶ外国人に一番難しい部分らしい。
 日本語の大きな特徴に、外来語の翻訳しやすさがある。杉田玄白と前野良沢は解体新書の翻訳に際し、中国の五臓六腑に入らない膵臓を苦労の末「大機里爾」と呼んだ(1774年)。「膵」という文字は 1805年に宇田川玄真により考え出され、中国に逆輸出された。江戸期に訓読み主体だった漢字の用法は、明治維新以降音読み主体に変身した。原動力は、福沢諭吉、西茜(あかね)らを中心とする知識人たち。社会、愛情、家庭、演説といった熟語が次々と創生された。
 残念ながら、一部の言葉は本来もつ英語のニュアンスの違いが無視されてしまった。その代表が「情報」。英語にはインフォメーションとインテリジェンスの2種がある。後者は知的情報という意味だ。
 もし福沢がきちんと訳していたら日本社会が変わったかもしれない重要な言葉にアカウンタビリティーがある。辞書には責任とあるが、レスポンシビリティーと区別がない。アカウンタビリティーとはしっかり説明をする責任という意味だ。政治でも医療でも、現代日本に欠けているのがこのアカウンタビリティー。これこそインフォームド・コンセント(十分な説明に基づく合意)の原点。

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「感染症の診断」

 WHO(世界保健機構)の統計によると、世界の人の死因上位20のうち実に16もが、肺炎、下痢症、マラリア、結核、エイズ、はしか、回虫症などの感染症だ。感染症は決して過去の病気ではない。
 日本でも、きたる4月から感染症予防新法が施行され、一世紀間使われてきた法定伝染病や届出伝染病といった名称がなくなる。院内感染予防の観点からすると、MRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)が第四類感染症に分類され、一定規模以上の総合病院におけるMRSA感染症の保健所への届け出が義務化される点は大きな進歩だ。
 さて、MRSA感染症の診断は意外に難しい。肺炎患者の痰の中にMRSAが検出されても、必ずしも肺炎の原因菌とは限らない。その確率は一割程度とされている。大部分は無症状で治療を要しない保菌者。特効薬のバンコマイシンをやたらに使うと、この切り札薬すら効かなくなってしまう危険が高まる。
 感染症予防新法の施行に伴って、性病予防法とエイズ予防法は廃止される。エイズ予防にコンドーム使用の有効性が強調されて久しい。ここでは、りん病予防に一言。
 エイズ予防キャンペーンにも関わらず、若い男性のりん菌性尿道炎の頻度は減らない。なぜって、この病気は、直接の性交渉を避けてもうつるから。夜の女性に多いりん菌性咽頭炎(のどの感染)はしばしば無症状。ぜひご注意あれ。

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「ペットと病気」

 脹れた首のリンパ節病変が病理検査に提出されてきた。顕微鏡的にみて、特殊な感染症が疑われた。こうした場合、患者の生活歴聴取が何より大切だ。その男性患者は小猫を猫かわいがりしているそうだ。この「ネコひっかき病」はその名の通り、猫に引っ掻かれたり噛まれたりしたあとに腋の下や首のリンパ節が脹れる病気で、小猫につくのみが媒介する細菌感染症だ。犬にも猫のみが寄生するため、犬に引っ掻かれた場合もこの病気のおそれがある。
 こうしたペットを介する病気は増加している。猫や犬の回虫の幼虫が子供の肝臓に迷入して一騒動することがある。犬のフィラリア(糸状虫)幼虫が肺に引っかかり、肺癌と紛らわしいこともある。口移しでえさを与えていた愛犬からパスツレラ症という細菌感染症を鼻にもらった男性患者もいる。
 こわいのはオウム病だ。どこぞやの宗教関係の病気ではない。ペットの小鳥からうつる肺炎で、診断が遅れると死亡することもある。オウムに限らず、インコや文鳥もクラミジアと呼ばれる原因菌をもっている可能性がある。飼っている小鳥が死んだ事実を聴きだすのが臨床医の腕。鳥は元気で「健康保菌者」のことも少なくない。決して鳥に罪はない。
ペットブームだ。過剰に恐れる必要はないが、こうした「人獣共通感染症」の可能性は念頭におきたいものだ。

連絡先: 堤 寛 Yutaka Tsutsumi, M.D.
藤田保健衛生大学医学部第一病理学
〒470-1192 愛知県豊明市沓掛町田楽ヶ窪1-98

tel: 0562-93-2439、fax: 0562-93-3063
e-mai:tsutsumi@fujita-hu.ac.jp
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